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当たり前のようでいて忘れていること

■俗に「現実は小説より奇なり」と云いますが、考えてみれば之は当然の理です。何故なら「小説」は常に「現実」の範疇に帰属するものであり「現実」が「小説」の外側にある状態は起こり得ないからです。そもそも「小説」と云うものは「現実の作者」に拠って書かれ「現実の読者」に拠って読まれるという「現実」がなければ存在しないものなのです。慥かに「作者の頭の中だけに存在する小説」や「作者以外の人目に晒されていない小説」という類は当然ありますが、前者は小説になりうる想像という程度のものでしかなく、後者は人目に触れるまでは存在しないも同然ということです。そして其れが実際に書かれ或いは読まれる段に至れば忽ち其れはやはり例外なく「現実の一部としての小説」になるだけなのです。若し本当に「現実より奇なる小説」があるとすれば其れは「永遠に書かれざる永遠に読まれえぬ小説」だけ、ということになるでしょう。

■小説や文学について、或いはまた音楽や絵画やスポーツや仕事や政治や殺人事件について語ることは、夫々が別の世界の別の次元の話というわけではなく全く同じ性質のものであり、同時にそれは人生や社会について語っているのと特に変わらない同一のものなのではないでしょうか? これは冷静に考えてみると至極当たり前の常識的意見ともいえそうなものですが、そうはいっても普段はついうっかりと忘れがちな姿勢に思えるのです。たとえばミステリ小説を読んでいて、「事件」という部分を「文学」や「人生」、「音楽」、「政治」というように置き換えてみても意味が通じるのです。文化や生活様式への取り組み方や考え方はおしなべて皆、人生全般に適用可能なのです。

■京極夏彦作品における宗教や哲学に関する薀蓄解釈応用の件には、どうにも文学のことを云っているようにも思える節が感じられます。そしてまた同時にそれは人生の話でもあるのでしょう。やはり優れた文学作品は物語性と批評性を内包しているものなのです。

■1998年・山本英夫『殺し屋1』→2000年・高橋源一郎『鬼畜』→2003年・金原ひとみ『蛇にピアス』……スプリット・タンが出てくる作品の発表順です。

■犯罪の低年齢化を憂える声を良く耳にしますが、本来なら教育の行き届いていない未成熟な子供が悪いことをするのは不思議でもなんでもなく、むしろ義務教育を終えて分別を弁えているはずの成人による犯罪が当たり前になっている社会の方がどうかしていると考えるべきではないでしょうか?

■インターネットや携帯電話といったコミュニケーションツールは使い方さえ間違えなければ大変便利なものですが、四六時中メールや掲示板の返信に追われていたりしてしまっているのでは逆に不便極まりない事態にもなりかねません。それではまるで道具に人間が使われてしまっているようなものです。IT革命の恩恵を存分に享受するためには道具の進化だけに留まらず人間自身が進化しなくてはならないのでしょう。

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2004年07月05日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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