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メモ

■とりあえずメモ。後でまた詳しく書く予定です。

・学校で教わらない犯罪教育と性教育の必要性。
・加害者が被害者に言葉で謝罪することへの違和感。謝罪法を説いたハンムラビ法典
・アパートの白骨と狂骨。事件性はないか?
・牛糞からパルプができる。繊維質と便意の相関性。
・社会保険制度とネズミ講の違いはあるのだろうか?
・阿部和重『ニッポニアニッポン』と獄本野ばら『下妻物語』~田舎と現代風俗
・小学館『スピリッツ』と『スぺリオール』両方で闇金漫画が大人気。
 『大門寺さくら子』の突然の連載終了と『ホムンクルス』再開の因果関係は?
・獄本野ばらと片山恭一と立て続けにベストセラーを刊行してきた小学館。
 満を持して文芸誌『きらら』を創刊。純文学市場に殴りこみか?
・『メフィスト賞』の仕掛け人・太田克史氏。新雑誌『ファウスト』も大当たり。
  映画テレビドラマのように文学作品もプロデューサー(編集者)で選ぶ時代? 

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2004年06月13日 メモ トラックバック(0) コメント(2)

佐世保の事件と魍魎の匣

佐世保の事件が報道された頃、ちょうど京極夏彦の2作目『魍魎の匣』の終盤、12歳の少女2人の屈折した関係が暴露される辺りを読んでいたもので、驚きました。実はこの小説、冒頭で鉄道事故の場面があるのですが、そこを電車の中で読んでいたら本当に人身事故で電車が止ってしまうという偶然も起きていたもので、それもあっての印象でした。それでちょっと気になってこの作品に関する何らかのいわくでもないものかと調べてみたところ、作中に登場する相模湖の取材予定日に、作中同様にバラバラ死体が発見されてしまい、それで取材を取りやめたんだそうです。全て偶然の産物かもしれませんが、そうと言い切れる保証もなく、何だか薄ら寒さを感じてしまった次第です。しかしながらちょうどこういった共時性(シンクロニシティ)の問題解明についての話が今読んでいる3作目の『狂骨の夢』に出てくるようなので、どういう解釈がなされているのか楽しみにしているところです。

2004年06月10日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

漱石デビュー100周年、京極デビュー10周年

というわけで最近していなかった文学関連の話を久々にしてみようかと思います。

今年は漱石が『猫』を発表して100周年目に当たるそうです。暦の都合などで正確にいうとどうなのかわかりませんが、とりあえず1905年1月に第1回の連載が開始されたので大体当たっていますよね? 言文一致の文体を導入することによって幕が開けられた近代文学の黎明期は、誰あらぬ漱石の登場によって不動の地位を獲得したわけで、日本文学史における漱石の貢献度は言うまでもないことですが、何よりも新しかったのは、高尚さを保ちながらも娯楽的側面を兼ね備えたジャンル不明の流れを切り開いたところにこそあるといえましょう。もちろんそれ以前にも二葉亭四迷らの努力があったわけですが、『猫』に到ってその成果が結実したといえるのではないでしょうか。何より漱石の門下生には芥川がいますし、その芥川をこよなく愛読したのが太宰でしたから、漱石から連なるべストセラー作家の系譜は現在にまで脈々と受け継がれてきているのです。

それにも関わらずどういうわけか国語教科書からも千円札からも追いやられてしまうのは、もはや100年経てば古典だからということなのでしょうか。そういえば芥川賞の若手女流作家2人によるW受賞というは、もしかすると夭折の女流作家・樋口一葉が5千円札のモティーフとして人口に膾炙するという流れを汲んでのはなむけというような意味合いがあったりするのかもしれませんね。

同時に今年は京極夏彦のデビュー10周年にも当たります。そういう節目の年に直木賞を受賞できたのは、さぞ嬉しかったことでしょうね。それにしてもこの10年間、ずっと人気作家の地位をキープしてきたわけですから、本来「将来の人気作家候補」に授けられるというような意味合いを持ってきた直木賞を今更になって受賞したのは妙な話ともいえますが、後付でそれを認められたと考えればいいのでしょうか。

今年の前期は芥川賞ともどもセンセーショナルでしたから、もしかすると今後もそういう路線が考えられるのかもしれません。そうするとたとえば、芥川賞の登竜門とも言われる『文學界新人賞』出身者でありながら賞とは無縁の不遇の日々を長く過ごした末にベストセラーを生み出した片山恭一あたりが今度はノミネートされるかもしれません。ちなみに僕はアメリカのSF作品そのまんまの題名といういわくつきということへの拒否反応もあって今のところ読んでないのですが、何にせよ売れるモノを作れるのはいいことです。文化だ芸術だと声高に叫ぶだけで腹は膨れませんし、それだけ大勢の関係者を養っているということですから、無下には批判できません。

ちなみにその題名の元ネタはアメリカSF界の2大文学賞ヒューゴー賞・ネビュラ賞両方を受賞しているSF作家ハーラン・エリスンの『世界の中心で愛を叫んだけもの』ですが、これは原題『The Beast That Shouted Love At the Heart of the World』の忠実な翻訳ですから、エリスンのセンスだったというわけです。訳者は映画『ブレ-ドランナー』の原作として名高いフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』も手がけている浅倉久志。これまた原題『Do Androids Dream of Electric Sheep』そのままということで原作者のセンスということになりますが、ジェイムズ・ティプトリーJr.の『たったひとつの冴えたやり方』の原題は『Starry Lift』ですから、浅倉氏のセンス自体が優れていたといえるでしょう(※日記公開後に「no1livesforever」さんよりご指摘がありましたので追記しておきます。作品集『Starry Rift』の収録作品『たったひとつの冴えたやり方』は原題「The Only Neat Things to Do」のほぼ直訳だそうです。ですから作品集のタイトルを収録作のタイトルに変えた点のみが浅倉氏のオリジナルということだったわけですね。ご指摘ありがとうございました)。

それにしても英語の原題のほぼ直訳の邦題が日本人の読者の琴線にも触れるというのは、どことなく不思議な現象のようにも思えます。従来なら日本人の感性に合うように意訳するのが翻訳の基本だったようにも思うのですが、生活の隅々にまで舶来文化の行き渡った現代の日本に住む日本人の感性はもはやグローバル化によってすっかり変質しているということなのかもしれません。

それはさておき、文学史上類を見ないほどの希代のベストセラー作家・村上春樹と文学の未来を変えたとまでいわれるポストモダンの旗手・高橋源一郎が芥川賞作家でないことがどうにも理解できないので、そこら辺も何とかしてもらえないものかと思っています。

あと、今まで知らなかったんですが京極夏彦って僕の出身高校の先輩だったんですね。ネットで調べ物をしていて、ついさっき偶然に知りました。そうすると出身高から直木賞作家が出たということで、地元では大騒ぎだったりしているのかもしれません。でもあまり知られていないかもしれないので、どうなのかは定かではないのですが。京極氏は僕の10歳上ですから、同じ先生に学んでいたりもしたのかもれません。帰省する折には郷里の友人にでも訊いてみたいと考えています。

10歳年上でデビュー10周年ということは、現在の僕と同じ年齢であの質実剛健博覧強記抱腹絶倒の名作『姑獲鳥の夏』を書き上げていたということですから、空っぽの我が身の体たらくを振り返ってみて情けないばかりです。ちなみに倶知安高校出身の有名人は他に漫画家のゆうきまさみ等もいますが、そんなに規模の大きな高校というわけでもないのに、すごいことだなあと思った次第です。まあ高校がすごかったところで僕自身がどうだというわけでもないですが、一流の人物と同じ環境に身を置けたという意味で誇らしさを多少なりとも感じてみた次第であります。

2004年06月05日 日記 トラックバック(0) コメント(7)

長崎の事件について

人権が守られるべきなのは加害者ではなく被害者ですから、被害者名も被害者の顔写真も報道されるべきではありません。被害者の人権を侵害しているマスコミが加害者の人権を擁護するような発言をしているのは笑止なことです。

加害者が愛読していたというバトロワは、憎み憎まれ殺し殺されることの悲しみの心情を描いた作品ではありませんか? そのためにリアルで痛みを感じさせる表現を用いたのです。いわば戦争批判小説ともいうべき代物です。ですからバトロワファン=残酷な人格障害者というわけではなく、作品のテーマを理解できず細部の残酷描写のみに感化されるというその時点ですでに人格障害は始まっているのでしょう。

それにバトロワはあくまでも想像の世界を描いたフィクションですが、むしろ現実社会において行われているノンフィクションの戦争報道、こちらのほうが現実に人を殺すことへの罪の意識をマヒさせている、そういう可能性を考えてみてもいいのではないでしょうか? 自らの自分勝手な正義を貫くために安易にイラク人を殺しまくるアメリカ。そのアメリカを支援する日本政府。そこで義務教育を受けている子供が、自らの自分勝手な正義を貫くために安易に人を殺す。全く自然な流れです。

バトロワの残酷描写には海外の戦争小説や国内外の事件などから引用されたと思しき部分が結構あるように思います。実際に人を殺したわけではないのですから、想像を膨らませて書くしかなかったのは当然のことです。そうはいってもバトロワの著者がサディスティックな性質の持ち主であっただろう点だけは否定できません。もともと新聞記者だったわけですし、その頃から猟奇事件の取材に好奇な視点を持って接していただろう可能性もあります。えてして報道関係者のなかには、そういう部分があるのかもしれません。しかしバトロワの著者は、それを良心的なテーマの中に閉じ込めて、フィクション造りに昇華させることができたという意味で、常識人だったわけです。

そもそも本や映画というものは、偶然に享受してしまうおそれのあるものではなく、読者や視聴者が能動的に動かなければ目には入らないものですから。それに対してテレビのニュースというものは、偶然に目に入ることが多いものです。ですから本や映画より以上の不特定多数への影響に配慮する必要があります。報道関係者が体を張って仕事をしているのが悪いことだとはいいませんが、たとえば「首を切る画像がネットで流された」なんて言い方をする必要はありませんし、被害者の傷が深さ10センチだったなんてことも報道する必要はないはずです。それこそ徒に市民の好奇心を刺激するサディスティックな行為だと思うのです。

2004年06月03日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

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